B3 LEAGUE

「赤い絆」

1980年代、ひとつのバスケットボールチームが東京に生まれ、バスケットボールの世界で急成長を遂げた。
当時は、日本の多くのスポーツチームが親会社の傘のもとに生まれ育まれた、「企業スポーツの時代」
日本のプロスポーツも、プロ野球一極集中。そのプロ野球ですら、自立した経営とはほど遠く、プロの野球人のプロの勝負の世界とともに親会社の広告宣伝の意義が重視されていた。
日本の経済成長と共に、その主役である華やかな企業たちに抱かれたスポーツチーム。
当然多くのスポーツチームが経営とは無縁で親会社依存、スポーツビジネス黎明期とも呼ばれる時代。
そんな時代に、「オレンジ」のバスケットボールカラーとよく似合う「緑」のチームカラーで、そのバスケットボールチームははじまった。
「グリーン」はさながら、1980年代に再び黄金期を迎え躍動していたボストンセルティックスのようだった。

そして1983年、SantaClaraUniversityのBasketballTeamのコーチから「Broncos」の名前をプレゼントされ、日本の地に初めて、バスケットボールチーム「Broncos」が誕生した。
“企業名”と”東京”を冠した、『最初のBroncosの時代』が幕を開けた。

一方、1980-90年代は企業にとっては激動の時代だった。
企業の成長のため、日本の国力と産業発展のために、企業は大小様々合従連衡を繰り返し内外に変化を繰り返した。バブル崩壊後は生き残るための変化を余儀なくされたこともあった。
Broncosも、企業の変化とともに、チーム名も変わり、時には「青」になったこともあるという。
しかしやはり、激動の時代であったのだろう。親である企業子であるBroncosはやがて袂を分かつこととなり、まったく別々の、変化と挑戦の道を歩むこととなった。
それぞれ20年以上も続く、悲喜交々、ことづてを辿る以外ないほどに激動だった変化と挑戦の歴史を。


リーグからの降格も余儀なく、独立独歩の実業団となったBroncosは、生き抜く力が必要だった。
けして、ふところは豊かでないが、夢と情熱に溢れていた。
いろいろなご縁を頼りに、荒々しく生き抜くために、そしてBroncosとご縁を結んでくれた人々とBroncos自身の夢と未来のために、変化と挑戦を続けた。
東京の足立にある体育館でバスケットボールをしていたころもあったようだ。
やがて間もなく、東京を出て、埼玉は所沢の地に本拠地をかまえた。
所沢、狭山茶、緑色。“所沢”をチーム名に冠した、『緑のBroncosの時代』がはじまった。
2000年代に入ると、bjリーグ構想や竣工したばかりのさいたまスーパーアリーナでの世界選手権大会など、バスケットボールに関わる人々と地域の人々の夢と未来への期待が一気に膨らんだ。
Broncosもその夢と未来を信じて、“所沢”から“さいたま”になりそして“埼玉”になった。
連覇もした。さいたまスーパーアリーナさえをも沸かせた。
所沢市さいたま市はもとより、春日部市深谷市、から秩父市まで。“The Saitama”と呼ばれる数多くの土地土地で、人と人とのご縁と、地域の人々の夢と未来への期待を膨らませていった。

しかし一方で、2000年代中盤以降徐々に、Broncos自体に、未来がみえなくなりはじめる。
プロ野球とプロサッカーを皮切りに、スポーツの世界もスポーツと経営が不可分の時代に突入しはじめていた。
Broncosが引き続き野性味たっぷりに荒々しく、次の時代と次のバスケの世界を生き抜くためには、Broncos自身が経営の力を手にしなくてはならなかった。そのためには、自ら組織を壊し進化させなくてはならなかった。
バスケットボールへの情熱と夢は昔と変わらなかった。
バスケットボールのための野生の本能も変わらなかった。
だがしかし、自立した経営に挑まなかった。そのために自ら組織を変化させなかった。
経営のための野性の本能が備わらなかった。
そして、Broncosの経営がみえなくなってしまっていった。
長い年月をかけて、人とのご縁と夢と未来への絆は、薄れていってしまっていった。

チームの成績も、経営の裏返しとなって15年もの長い時間の間低迷を続けた。
何億もの借金。多額の赤字。心やさしき支援者への依存。
人とのご縁の大切さ。The Saitamaの地域地域の多くの人々の夢に報いることのできない遣る瀬無さ。
勝った負けただけで、人との絆、地域との絆は、薄れない
「一生懸命、人と地域と向き合ってくれてさえいればいいのに」。
「夢をみせて、楽しませてくれてさえいればいいのに」。
「情熱たっぷりに、未来を感じさせてくれてさえいればいいのに」。
本質から目を背けてしまったBroncosは、自らより一層距離を置くようになってしまった。

そんなBroncosを見守り応援を続けてきたファンのみなさんの気持ちも大切にしたい。
私たち自身も悩んだ。正直、苦しかった。
悩み、とことん考えぬいた結果、次の時代に進むためには、「新生」と一目瞭然な変化を遂げることのみが、結果、ファンの気持ちを大切にすることになる、という結論に達した。

Broncosをどうにか存続させることができた。
Broncosというチーム名だけは残すことを許された。
Broncosのアイデンティティは「バスケットボールへの情熱」と、「生き抜く力」「変化と挑戦」
そして、それらの根底に流れる「野生の本能」
Broncosの原点は実は「赤」だった。Maroon Redという赤だった。
新生Broncosの原点は、さいたまを元気にしたい!地域を元気にしたい!みんなを楽しませたい!というシンプルなまでの情熱
荒々しくパワーみなぎる野生の本能に、脈々とたぎり流れつづける、情熱の赤
そして、チーム名の“さいたま”を超えてBroncosの歴史を育んでもらった、埼玉の赤。
すべてを一新し、新たに挑戦を続けていくことで、離れてしまった心と絆を取り戻したい。人々とのご縁と絆を取り戻したい。夢と未来への絆を膨らませたい。

だからもう一度、最初の最初から。みなさんと共にはじめさせてください。
Broncosが守るべきアイデンティティと共に。

すべてを新しく変えることをどうかお許しください。
Broncosが、バスケットボールが、人と夢と未来の絆になる、これからの時代の戦いに挑むために。
そしてさらに、変わり続けます。挑戦し続けます。失敗なんて恐れずに。
最後には、さいたまと埼玉、The Saitamaの地域のみなさんと、永くブロンコスを応援してくださっているみなさんと、みんなで楽しく笑っていたい。勝ってみんなで幸せになりたい。

もう一度、新しくて情熱に溢れた「赤い絆」をもっともっと多くのみなさんと結びたい。

新しい赤は、野性の情熱を意味する、SAVAGE REDといいます。
なにとぞよろしくお願いいたします。

2020年7月1日
株式会社ブロンコス20 経営陣一同
さいたまブロンコス(The Saitama Broncos) チーム一同